やばっ!わたし、傘忘れちゃった!
そう気付いたのは昇降口の扉を掻い潜ってからで、それでは遅く、他の生徒が傘を忘れた憐れなわたしを横目に自分はちゃんと持ってきた、眠い目を擦って朝天気予報を見てきてよかったぁと胸を張るようにバサバサと勢い良く傘を開いていく中わたしは立ち尽くすことしかできなかった。
そういや今日お母さんが「雨降るから傘持っていきな」て言ってたなぁ。ちはやふる21巻を学校の帰りに買わなくちゃ買わなくちゃって思ってたら傘忘れちゃった。あぁ、恥ずかしい。
誰か友達に傘いれてもらおっかなぁ。でも友達はもう帰っちゃっただろうし、あぁもう斉藤のクズ教師が、なんでわたしだけ居残りなのよ。榊も坂本も授業中騒いでたのに...あぁ、本当にどうしよ...
お母さんに持ってきてってメールしたら絶対怒るだろうしなぁ、でもしょうがない、それしか術はないよね...ってあれ!?わたし、まさか携帯忘れちゃった!?
不幸というのは一度にたくさんくるものだ、と昔読んだ漫画か小説かにそう書かれていたのを何故かこのタイミングで思い出した。いやいやいや、毎日持ってきてるのにぃぃ~~!何で今日に限って!?
しょうがない...めっちゃドシャ降りだけどこの中帰るしかないのか...あぁ制服透けてブラ見えたらどうしよう...今日に限って着けてる下着、3枚組990円の安物だよ...なんで今日に限って...
「ん?支倉じゃん」
闇の中を彷徨っていると言っても過言じゃないブラックな雰囲気で肩を落としてるところに、ふとわたしの名前が自分の耳に入ってきて背筋がびくっとなる。
振り返ると同じクラスで幼馴染の桐生が、入学式終わった後のホームルームで髪の色を指摘してきた森山という教授に口答えして入学早々1週間停学になった桐生が、同じく良い噂を聞かない所謂同類と言うのか眉毛の整え方と制服の崩した着方だけしか能にないそんな連中達と一緒に立っていた。
「どうしたの?そんなボケーッと突っ立ってさ」
桐生がこの学校で一番モテているのをわたしは知っている。もちろん幼馴染と言えど高校生にもなって仲良く一緒に登下校だなんてそんな少女漫画のような展開にはならないのが自然の摂理で、同じクラスだと言ってもたまに目が合うぐらいで、会話なんてもっての他、女子特有のネットワークで桐生が誰ソレと付き合ったとか、別れたとか、何年先輩の子と付き合って、2週間で別れたらしいとか、4組の誰々が狙ってるらしいよとか、そういった女子との会話でしか出てこない存在だった。
でも桐生の名前はそれこそ噂の中では一番の人気だ。何より女子から圧倒的に人気が高い。それはわたしにも分かる。桐生は顔が整ってるし高身長で話も面白いクラスのリーダー的存在。健全な女子高校生が気にならないわけがない。
でもわたしは興味がなかった。そんな情事に満ちた教室を一歩引いて眺めてるのがわたし。男の子と難しい駆け引きをするぐらいなら家で漫画を読んでいたほうがいい。そりゃもちろんわたしだって高校生のうちに処女を卒業したいし胸をときめかせたりしたい。でもその欲求と面倒臭さは常に隣り合わせで、わたしとは相容れない。
「いや、傘忘れちゃってさ」
「マジ?いれてあげようか?」
だから学年一の人気者にそんな言葉を投げかけられても、わたしはこう答えるのだ。
「ううん、家じゃなくて教室に忘れちゃったの。気遣ってくれてありがとうね」
いつものことだ。わたしには向いてない。そう思いながら回れ右をしてさっき脱いだばかりの上履きを履いて2階の自分の教室に向かった。
この方が楽だ。きっと卒業まで平穏に暮らしていける。わたしは敵を作りたくない。
そしてわたしは知っている。桐生と2人で帰ってるところをもし誰かに見られたりして、沙也加がそれを知ったら。それを思うだけでわたしは怖くなる。いや、怖いんじゃない。ただただ面倒くさいのだ。
「ねぇ美織、わたしが桐生くんのこと好きなの知ってるよね?」
沙也加がそんな言葉を同じクラスの富原美織に発しているところを見たことがある。沙也加のその声は誰がどう見ても憤慨の色を隠しきれておらず、関わらないほうがいいという警告が尾を引くように静かに秘めているのはすぐに分かった。実際沙也加の取り巻きも、その他のクラスメイトも他の作業をしながらチラチラと様子を伺ってるだけで誰も口出しなんてしない。わたしもそうだった。
「美織が昨日、桐生くんと仲良く話してるとこ、見ちゃったんだけど」
「誰が誰を好きになろうが、恋愛にルールなんて無いよ」というのは一昨年亡くなった祖母の言葉で、70を過ぎても張りのある美しい肌をしていてお婆ちゃんは死ぬまで綺麗な顔で笑った。高校のときの同級生と結婚して自分が死ぬ72歳のときまでずっと一緒にその人と共に過ごしたそのお婆ちゃんが言うのだからなんだか少し説得力があった。
病院で寝たきりになったお婆ちゃんは3日に1回目を覚ますかどうかの意識不明状態が長く続いたけれど、お爺ちゃんは毎日朝から晩までお婆ちゃんの隣にいた。わたしは昔からお婆ちゃんっ子でお婆ちゃんのことが大好きで大好きでお婆ちゃんに色々なことを教えてもらうのがたまらなく好きだった。他の同年代の誰よりも、お婆ちゃんとは仲が良い自信があった。今日学校でどんなことがあって、とか、友達の誰々が誰々と付き合い始めて、とかわたしはそんな会話をしても違和感のないぐらい、言ってしまえばお母さんよりも近い距離だったことを自負している。
しかしそんなわたしでもお婆ちゃんとお爺ちゃんの、その間に入ることはできなかった。「早く楽になっちまえよ」と冗談を言うお爺ちゃんの隣で「まだまだ負けませんよ」と笑いながら言い返すお婆ちゃん。達観した夫婦仲は微笑ましいというかとても憧れた。わたしもいつか、自分が死ぬ瞬間になっても冗談を言い合えるような素敵な人と出会いたいって、お婆ちゃんとお爺ちゃんを見る度そう思った。
そんなお婆ちゃんが言うんだ。間違いなわけがない。
「わたしへの当て付けのつもり?正直ウザイんだけど」
沙也加が小声でそう付け足すと美織の机を強く蹴ったのをおそらくそのとき教室にいた誰もが見ただろう。でも誰も言わないし、誰も見てないフリをする。机の上からバラバラと落ちた教科書を拾ってあげる人もいない。もちろんわたしも、友達と会話をしていて見ていなかったフリをした。
別に美織に同情してないわけじゃない。沙也加のしたことが間違ったことをしていると分かってないわけじゃない。最初からそんなおままごとよろしくの人間関係に興味なんてないのだ。わたしは家に帰って漫画を読んで、テレビを見て、次の日そのことを話せる友人がいて、お昼ごはんを一緒に食べれるぐらいの孤立しない程度の居場所があるだけで私は満足だ。良い人にならなくてもモテなくても構わない。平穏な生活を送って卒業さえしてしまえばどうせ友達なんていう関係は携帯のメモリーから消されるし消すし、忘れられるし忘れていくんだろう。
だからわたしは嘘をつくのだ。だからわたしはいつも逃げるのだ。
そろそろかなぁ。
意外にも誰もいない教室で時間を潰すというのは刑罰に近いほどの苦しみがあり、窓の外で鳴り止まない雨の音が心地よく耳に響いてきて、それだけが苦痛を燮らげる唯一のアイテムだった。
さすがにもうみんな帰っただろう。この時間に通学路を歩いてるモノ好きな人間もいないに違いない。よしっ、走って帰っちゃおう。ちはやふる、お前はまた今度だ!
わたしは今日何度目かの昇降口に降りてった。雨の音と対比して葬式さながらの静けさに包まれた昇降口は人がいないことを示唆していた。やった、これで雨に濡れて帰る憐れなわたしを見る人はいない。
扉をあけ、地獄とも言える雨の中に足を踏み出そうとしたときだった。
「よぉ、遅かったな」
声がまた後ろからして、わたしはまたびくっと背筋を怖ばせた。無視しようかどうか一瞬迷ったが、その声に見覚えがあり、わたしは恐る恐る後ろを振り返った。
「え、うそ。桐生?」
桐生が退屈そうに携帯をいじりながら壁に凭れ掛かっていた。「長すぎだろ。何してたんだよ」と言いながら欠伸をひとつして、こちらに近付いてくる。
「ほら、帰るぞ。早くはいれ」
「なんで帰ってないの?」
「あ?」
面倒臭そうに私を半ば無理矢理自分の傘に入れた桐生にわたしは問いかけた。うそでしょ?なんでまだ帰ってないのよ。これじゃ...嘘ついたこと...
そんなわたしにお構いなしに前へ歩こうとする桐生に、しょうがなしにわたしも遅れないようについていった。
「支倉と一緒に帰るのも小学生以来だな」
並んで歩くと微かに男性の整髪料の匂いが香ってくる。綺麗な横顔が見上げる形でそこにある。そりゃモテるわ。こんな男に無邪気な笑顔で「一緒に傘はいる?」なんて言われたら並の女子高校生ならイチコロだろうね。沙也加もあんなに必死になる理由が分かる。
「久しぶりに話すけどさ、まさか俺がお前の嘘を見破れないとでも思った?」
桐生はそう言うとまた綺麗な顔をして笑った。お婆ちゃんとは少し違う、無邪気で隙が無い笑顔。
「桐生はさ」
わたしはもうどうにでもなれ、という気持ちで喉から溜まっていた言葉を吐き出すつもりでいた。沈黙が気まずくなることを予期したわけではない。彼の誘いにさえも不機嫌な顔をして断ってみせる女にならないといけないのだ。そんな女を演じなければこの学校ではわたしは生きていけない。
「沙也加に好かれてるの知ってる?」
桐生は一瞬きょとんとした顔でわたしの目を見つめ、少し何かを考えた素振りを見せてから呟くようにして応えた。「うーん」
「なんとなくは気付いてたかなぁ。やたらと話しかけてくるし」
「なのになんで」
わたしはもう半分躍起になっていた。なんで、なんで、沙也加がクラスで美織にひどいことをしているということ、たしかに女子トイレに連れ込んでバケツに入った水をぶっかけたとか、そんなことまでは知らないに違いないが、少なくとも美織の大事にしていたカバンについてたキーホルダーを千切って窓から放り投げたことは知ってるはずだ。
自分とこうして一緒に帰る姿を誰かに目撃されたら、わたしが標的にされてしまうことも、きっと桐生なら感づいてるはずだ。
「なんで、なんで」
わたしの言葉は声にならなかった。桐生はそれを全て了解した上で黙ったまま前を見ている。その優しさがわたしには痛すぎる。
最初のきっかけはなんてないことだった。意識し始めたのは小学4年の頃、他の人が遊んでほったらかしにしたままの一輪車を桐生がグラウンドの隅でたった一人で片付けてるのを見つけたときだった。
確かそのときはわたしが先日までひいてた風邪がやっと治って病み上がりで病院からそのまま学校に行った日だったと思う。だから1時間目の授業には若干遅れてしまった。だからわたしは一人で校門をくぐり、そして意識しないで校庭に目を走らせたとき、桐生が一人で一輪車を片付けていたのだ。
最初は教師だと思った。でもよく見るとそれが幼馴染の桐生だということがすぐに分かった。桐生は一輪車をするような子じゃなかったから、わたしは初め何をしているのだろう、と思った。そんなの片付けなくても大丈夫なのに。散らかした子が悪いのに。授業、もう始まってるのに。わたしの中で疑問符が溢れた。
それから注目してみると桐生が休み時間明け、毎回みんなが散らかしたままの竹馬やボールを片付けてることがよく目についた。一度気にしてみないときっと誰も分からないことだったろう。おそらくわたしだけが気付いていた。だからわたしはある日桐生と一緒に帰ろうと自分から誘って、何故そんなことをしているのか問いだした。
そのときの桐生は照れくさそうに答えた。
「だって、遊んでたヤツはわざとやってるんじゃなくて、本当に忘れてるんだぜ。笑っちゃうよな。遊ぶのに一生懸命になるあまりいつもチャイムが鳴るか鳴らないかぐらいで遊びを終えて、みんな泣きそうな顔になって教室へダッシュするんだよ。」
「でも桐生くんが直す必要ないじゃん」
「なんでよ。気付いたヤツが直せばいいじゃん。なんか俺、おかしい?」
桐生が毎回休み時間明けの授業に遅れているからということで注意しても一向に直らないため親を呼びだされて説教されたっていう話を知ったのは中学生になったときで、その頃にはもうわたしと桐生は仲良く話すこともなくなっていた。
思春期特有の恥ずかしさが常に会話の中に見え隠れし、それが煩わしく自然とわたしと桐生は疎遠になった。
ただわたしは中学2年のとき、一度だけまともに会話した。中学のときもモテていた桐生と、見た目が随分と変わった所謂イケメンの幼馴染と話すのは緊張した。緊張していないフリをしながら、わたしは一生懸命になって会話した。また話しかけてくれるように、楽しそうに笑った。
その努力が実ったか実らなかったのかで言えばおそらく実らなかったのだろうが、わたしはそれでもいいと思っていたし一体自分は何でこんな桐生のことになると必死になってしまうのかも考える気はなかった。
ただわたしは覚えている。そのときの会話、どっちが話しかけて、どこで話したのかもうろ覚えの会話の中でひとつだけ、鮮明に覚えている言葉がある。わたしが何も気なしに口からついて出た言葉。
「桐生ってさ、茶髪似合いそうだよね」
横を歩く桐生は黙っていた。わたしも黙ったまま同じ傘の下で歩いた。学校から家までは徒歩で軽く30分弱かかる。普通ならその道をこの沈黙と隣合わせで歩いていくのかと思うと気が滅入るものなのだろうが、わたしは何故か緊張のほうが上回って沈黙のほうが楽だった。
そうして会話もないままわたしは家に着いた。桐生の家はわたしの家の向かい合わせから二つ北の家で、出かけるときも帰るときもたまにすれ違うこともあった。
桐生は「じゃあ明日な」とあのときと変わらないままの笑顔でそう言うとわたしに背を向けて自分の家に帰ろうとする。
本当ならわたしはそこで何も言うべきではないのだろう。言ったとしても「うん」だとか「また明日ね」だとかそんな取り留めのない無難な言葉を返しておくのが普通だろう。でもわたしはそうはしなかった。
何故だか分からないがそれは今日の5限目の斉藤の授業で居眠りしていたら居残りで反省文を書かされたからだとか、憂鬱になるほどの雨が降ってたからだとか、久しぶりに幼馴染と会話したからだとかそんなことなのだろう。
「ねぇ、あのときの言葉、覚えていてくれたんだ」
わたしの声に桐生がゆっくりと振り返る。雨で湿気った髪の毛がそれでもオシャレに僅かな毛グセをつけたまま整髪料で程よく整えられている。昔は汚れた服のまま家に帰っていた桐生。でも彼は大人になった。それはもちろんのこと。ちゃんとオシャレのことを考えて、好きな人ができて、色々な嫌なことを体験して、そして桐生は目の前に、かつての面影を少し残しながら立っている。
「茶髪が似合いそうだねって。ごめん。それで先生に怒られたの、半分わたしのせいだから謝っとこうと思って」
それだけじゃ足りないような気がして「ずっと謝ろうと思ってたんだけど」と付け加えた。
「お前のほうこそ、覚えてたのかよそんなこと。なんか恥ずかしいじゃん」
桐生の笑顔は本当に柔らかく綺麗だ。それは女心を上手に擽るソレだと女のわたしだからこそより一層分かる。でも、きっとわたしの桐生の好きなところは、そういうところじゃない。
整った顔も、モデル顔負けのスタイルも、優しい気遣いも、無邪気な笑顔も、わたしが好きなのはそこじゃない。
「わたし、桐生のこと、小学生の頃からずっと好きだった」
言っちまえ!どうせ雨で涙かどうかすら分からないだろ。わたしは雨の音に背中を押されるようにして桐生に言い放った。
「知ってるよ。俺も支倉のこと、ずっと好きだった」
きっと、それでも世界は変わらない。わたしは明日からまたいつも通り学校に行き、桐生を横目に沙也加に怯え、美織をかばうことをせず、斉藤に叱られ、自分勝手に平穏な生活を手に入れるべくわたしは生きてゆく。
卒業しても、それはきっと同じで、女の世界で生きていけるだけの賢さだけを頼りに面白くない話に懸命な作り笑顔で応え、わたしは人に好かれて、嘘偽りに塗れた関係で落ち着いてゆくのだろう。
それでもいい、と思った。こんな関係も悪く無いって、お婆ちゃんの笑顔が衝突に脳裏に浮かんだ。
恋愛にルールなんてない。
その後お婆ちゃんはなんて言っただろうか?忘れてしまったがきっとこう続くに違いない。
恋愛にルールなんてない。好きな人を好きと言って、何が悪いんだ。
沙也加、よく聞け!
わたしは桐生が好きだ。大好きだ。沙也加とは比べ物にならないぐらい好きで、この気持ちが報われなくてもわたしはずっと好きでいる。他人に言いふらして仲間と嫌がらせをして敵を減らすような愚かな真似はしない。恋愛にルールなんてない。勝ちも負けもない。わたしは桐生のことが好き。それだけでいい。それだけでわたしは、明日も生きてゆける。
そう、世界は何も変わらない。けれどわたしは明日もきっと生きてゆく。
だって、それでもいいって思っちゃったんだもん。
でも変わったものがあると言えば、それは
家に帰ると濡れたわたしを見てびっくりしたお母さんの二言目の怒声を、笑って聞けたことかな。
帰ってすぐ風呂に入って、着替えて、気付くと雨足は遠くなっていた。
少し濡れた制服が、もう乾き始めている。
# by Kichigaiiiii | 2013-06-19 15:57 | .